最新更新日:2024/06/13
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子どもに自己実現力を

似島保育園 生活発表会

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 似島保育園の生活発表会を参観させていただきました。
 園児はわずか8人。それでもたくさんの劇や歌,合奏など,ひとりでいくつもの活動に取り組み,力いっぱい表現している様子に少なからず感動しました。指導された園の先生方の陰の努力や支援の温かさが感じられる,実に清々しい会でした。
 人数が少なくて,表現の方法には物理的に大きな制約があったと思います。その中で,子どもができる「精一杯」をきちんと見極め,子どもたちがそれに応えて「精一杯」チャレンジしてきた取組の過程が,観ている私たちによく伝わってきました。
・子どもの実態を把握し,持続可能な意欲をもって取り組むことができる適切な刺激(教育的な課題)を与える(つまり,常に少し背伸びしなければ手が届かないところに「ねらい」を設定する)。
・適切に指導・支援,評価を行うことで「やる気」と「達成感」「満足感」を生み出す。
・一緒に同じ目線で活動することで,子どもが「安心」して表現することができる場を創り出す。
 こうした手立てのもとで力を出し切った似島保育園の子どもたちは,さぞ心地よい疲れに包まれていることでしょう。
 できたか,できなかったか,ではなく,本気で取り組んだことがわかる姿勢が,子どもたちに「達成感」「満足感」をもたらし,参観者に感動を生むのだと改めて感じました。本校も学習成果発表会に向けて,子どもたち一人ひとりが「精一杯」取り組むことができるような場を設定しなければなりません。

レントゲンとCT

 今日はレントゲンの日です。レントゲン博士がX線を発見した日を記念したのだそうです。
 レントゲンを使うことで身体の中を透視し,より一層詳しく状態をつかむことができます。医療面では画期的な発見だったことでしょう。CTスキャンも原理的には同じ医療機器ですから,放射線を当てて画像を得るという点は同じです。レントゲンと違う点は,CTは多角的に放射線を当てることで三次元的立体的な画像をつくることができるということです。より詳しく正確に身体の様子を把握できることが高度な診察や医療に寄与しているわけです。
 外観よりも透視,平面よりも立体。
 対象の様子や状態をより詳細に正確につかむことが適切な対応を生む。
 児童・生徒理解の場では,性急な主観的な指導・支援が誤解や不適切な結果を生むことにつながりかねません。子どもたちをより多くの視点から多角的に観察し,情報を得て,本来の意味で「寄り添う」ことができるように心がけたいと思います。

立冬

 昨日は立冬でした。
 ということは秋も終わりということですが,それにしては暖かい。昼間は暑いくらいです。
 二十四節気でいう暦は,今の暦とはズレがあります。昔は太陰暦,いまは太陽暦という差,二十四節気は中国の季節を表現した暦であること,要因はいろいろ考えられますが,そもそも立冬とは「そろそろ冬の気配がしてきたよ」という日です。つまり,秋たけなわの時期に来たるべき冬の備えを促す意味があるのでしょう。寒くなり,雪が降ったり凍ったりしてから慌てるのではなく,冬の気配を感じ取り,少しずつ備えておく。古人はそうやって豊かな生活を築いてきたのでしょう。
 暖房機器のスイッチを入れればたちまち暖かくなる昨今とは事情が違うかもしれませんが,私たちの生活の中には今でも科学技術だけでは何ともならないことが多くあります。教育活動はまさしくそうでしょう。学校行事も授業も,目的を明確に見通しをもち,計画を立てて見直しながら実践していくべきものです。
 何より,「気配を感じて備える」という姿勢・態度,習慣そのものを,豊かに生きる力として子どもたちの身につけたいと思います。
  

人権の花

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 10月31日(水),「人権の花」贈呈式が行われました。
 人権擁護委員の方々に紙芝居を読んでいただきました。「まもる君」が登場すると,児童は大興奮でした。握手をしたり,ハグしたり,調子に乗って体当たりをしたりする児童もいましたが,「まもる君」は全てしっかり受け止めてくれました。

 児童代表が受け取ったヒヤシンスの球根は一人ひとりの手で,相手を思いやる気もちとともに大切に育てていきたいと思います。
 人権擁護委員のみなさま,ありがとうございました。

愛着障害

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 似島学園と本校合同の研修会を行いました。今回は,和歌山大学大学院教育学部教授 米澤好史先生をお招きし,「愛着障害の理解と支援」について一日半たっぷりとお話をうかがうことができました。先生の情熱溢れる講義は,新しく魅力的で情報量がふんだん,大サービスといった内容でした。久しぶりに大学の集中講義を受講させていただいたような感覚になりました。
 「愛着障害」という言葉はまだあまり一般的ではないかもしれません。いわゆる「発達障害」と区別がつきにくく,対応や指導・支援の考え方,あり方も違うため,米澤先生は両者を明確に峻別して理解することが必要であることを,全国を飛び回って説いていらっしゃいます。詳しいことは御著書の中で明確に述べられています。
 今回の講演では,ベテランの教職員ほど,
「ああ,そういうことか。」
「なるほど,そうだったのか。」
といった声や頷きに溢れていました。私たちが今まで経験的に積み重ねてきた実践の裏付けになること,逆にとんでもない勘違いをしていたこと,どうしたらよいか分からず長く悩んでいたことなど,児童・生徒とのかかわり方,指導・支援の考え方を見直したり,確かめたりする具体的な手がかりに富んだ内容だったからです。むしろ,児童・生徒だけでなく,人と人とのかかわりについて,「目から鱗」の思いでした。
 「学ぶ」ということは,何歳になってもこれでよい,これで終わりはない,ということを改めて気づかされた2日間でした。

釈迦の掌

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 朝,学園港から小富士を見上げると,後ろに雲ひとつない空が広がっています。たまに端の方に千切れたように小さく浮かんでいる雲を見ると,西遊記の觔斗雲(きんとうん)を連想します。
 觔斗雲は孫悟空が操り,宙返りひとつで10万里余をひと飛びすることができる術です。悟空が雲に跨がり,飛ばしに飛ばして世界の果てと思われる柱に行き着き,「斉天大聖」と墨書したところ,釈迦如来の指だったという有名な件があります。お釈迦様が如何に大きなものか,その偉大さを物語ると同時に,悟空の(あるいは私たち人間の)世界観,常識,認識といったようなものが如何に独りよがりで狭いものかを暗示しているのでしょう。
 「誰もが自分自身の視野の限界を,世界の限界だと思い込んでいる。」
 ドイツの哲学者で実存主義の先駆けとなったショーペンハウアーの言葉です。確かに自分の隣人の世界観を理解することは容易ではありません。しかし,人それぞれに別々の視野,別々の世界をもっていることを認め,常に意識することはできると考えます。
 多様な人間や考え方があることを,まず認めることのできる教員でありたいと思います。

食育出前授業

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 19日(金)に広島酔心調理製菓専門学校の玉澤雅宏先生をお招きして,食育の授業をしていただきました。玉澤先生の鮮やかな調理技術と巧みな話術に,子どもたちは目を輝かせて話に聴き入っていました。
 食文化における調理の技術や心構えと,人としての生き方や在り方が如何に当たり前につながっているのか,学校生活を意識した視点でお話をしてくたぜさいました。90分以上,本校の子どもたちが集中して玉澤先生の話を聞くことができたのは,先生の指導内容が「…である」「…しなさい」「…すべき」に終始せず,「なぜ…しなければならないのか」を軸にした,筋道の通った論理的な説明になっていたからです。子どもたちにとって身近で分かりやすい,イメージしやすいことを例えにして,指導内容の価値づけ,理由づけをされていました。
 「大切なこと」はシンプルに表現すればするほど「当たり前のこと」に感じられます。そこにどのように大きな価値があるのか,それを分かりやすく目の前に見せるのが教育であり,指導だと改めて気づかされました。
「たまちゃん」先生,楽しくて心に響く授業をありがとうございました。

天高く馬肥ゆる秋

 あれだけの猛暑の記憶も,最近の過ごしやすさのせいかすっかり薄れてきてしまいました。山の稜線をくっきり浮かび上がらせる濃い色の空。日本全体の色が「インスタ映え」する季節になりました。
 夏の蒸し暑い時期と比べ,大気中の湿度が大きく下がり,光線が水蒸気の粒に当たって乱反射しなくなったことで,遠景などの色彩が鮮やかになるのだそうです。
 子どもの指導をするとき,授業のときも同様です。環境に無駄な言葉,仕草,音などがあると,伝えたいことや大切なことが乱反射してしまう恐れがあります。子どもたちが教職員の言葉や発問,指示をストレスなく受け止めることができるような環境をつくらなければなりません。
 私たちの語彙や話し方も「肥ゆる」秋にしましょう。
 

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10月12日(金) 運動会前日

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 明日は秋季大運動会。
 9月から本校子どもたちや教職員だけでなく,学園,高等養護部のみなさんに大変なご尽力をいただき,今年も素晴らしい舞台が整いました。たくさんの砂をふるいにかけるところから始まり,台風や雨にも悩まされながら,草刈りや側溝の土砂撤去に至るまで,隅々まで気もちの行き届いた準備を進めていただきました。
 勿論,各種目への取り組みにも毎日奮闘してまいりました。
 子どもたちが力を出し尽くして,満足感と達成感に溢れる一日になることを祈っています。

天気予報

 夕焼けは晴れ,朝焼けは雨。
 蟷螂(カマキリ)が高い枝に巣をはる冬は大雪。
 古人(いにしえびと)は生活の経験則から天候の変化を予想しました。優れた知恵ですが,現在の科学技術に基づいた天気予報と比べると,かなり大雑把な予想であることは言うまでもありません。
 今年は台風が多く,大雨にも見舞われましたが,天気予報の確度は格段に向上し,どれくらい先にどれくらいの時間,どれくらいの雨が降るのか,など非常に具体的に知ることができます。災害そのものを避けることはできませんが,台風の進路はほぼ確実につかめるようになりましたし,突然の雷雨も事前に知ることができるようになりました。過去の膨大なデータや優れた知恵の蓄積,様々な気象要素を分析できる科学技術のお蔭です。地震の発生や火山の噴火も,近い将来完全に予測することができるようになるのではないでしょうか。
 子どもたちの言動は時に非常に気まぐれであり,無秩序であり,理不尽であるように感じます。しかし,子ども一人ひとりの言動にも,何かのきっかけや要因があるはずです。唐突に見えても,その時々にそのように振る舞うことになった「きっかけ」をつかみ,理解する。指導・支援の方策もその上に成り立つものです。
 私たちはまだまだ様々な知識や経験,技能を獲得する必要があります。子どもたちの「心の天気予報」を確かなものにするために。

足跡

 週末に運動会を控え,取組も佳境に入ってきました。
 本校のグラウンドは1ヵ月以上前から7トンもの砂を手作業で篩(ふるい)にかけ,裸足で滑らかに感じるほどに整えていきます。グラウンド整備に対する情熱は阪神園芸も顔負けです。
 古刹の庭園のように箒の目が入ったグラウンドに足跡を付けるのはなかなか勇気の要ることです。そこに特別な時間が流れることが約束されているからであり,積み上げた取り組みの重みがあるからでしょう。同時に,降り積もった銀世界に最初の一歩を刻むような,手漉きの和紙に墨滴を垂らすような,ドキドキわくわくした感覚にも包まれます。小さな頃,期待に胸膨らませた遠足の前や修学旅行の前も同様です。
 運動会の日に,子どもたちがそういったドキドキわくわくの気もちで一歩を踏み出せるような,そんな環境づくり,積み上げをしていきたいものです。


災害に強い国

 インドネシアで大きな地震と津波の被害が広がっています。被害の全容をつかみ切れていないようですが,人口の多い国ですから心配が募ります。
 自然災害の多さ,大きさという点では日本は世界で最も深刻な国の一つです。外国の方々は,あんなところによく住んでいるなあ,怖くないのかという思いをもっているようですが,この国に住む私たちは災害に「強い」のもまた事実です。
 「強い」とはどういうことか。
 日本は,防災意識,施設,避難意識・訓練などが比較的高く,整っていることは間違いありません。何より大きな犠牲や被害を乗り越えて,自然災害ですら意義や価値のあるものとして後世につないでいこうとする,またそうすることができる文化や生き方そのものが「強い」のだと考えます。
 様々な人的・物的被害だけでなく,例えば運動会が中止・延期になったり,準備・練習が計画どおり進まなかったりするというような小さなことも含めて,私たち一人ひとりがどのように受け止め,如何に意義や価値のある知識・経験に高めるか,子どもたちに理解させるのか。療育・教育の現場で問われているのはそういうことだと思います。

教科書を学ぶ

 京都大学の本庶先生が本年度のノーベル医学生理学賞に選ばれたニュースは,私たちを大変勇気づけてくれました。先生はあちこちのメディアにひっぱりだこで,大変お忙しそうでした。本庶という珍しい名字も一気に認識されるでしょう。
 インタビューに取り上げられた本庶先生の言葉の中で気になるものがありました。メディア受けする言葉でしたので,何度も放送されていました。
 曰く,教科書の内容が正しいとは限らない。信じてはいけない。いつも疑念を抱き,検証しようとする視点をもつところから科学はスタートする。
 大雑把にまとめるとこのような内容でした。
 これは,教科書なんか大したものではない,有難がる必要も,勉強する必要もないんだ,自分の信じた道を行けばいいんだ,ということと同義ではありません。
 教科書は必ずしも正しいとは言い切れない。
 確かにその通りです。物事に対して批判的な視点をもつことも大切です。しかし,これまでの科学・認識を整理し,まとめ上げ,検定に合格した教科書の内容は,現在の学識の標準です。疑念をもち,検証する,批判する姿勢というのは,あくまで誤解なく教科書の内容を理解し,咀嚼しきってこそ立てる地平です。勿論,本庶先生はそれを当然の前提として仰っているのでしょうが,言葉は切り取り方次第でどのようにでも独り歩きをしますし,時の人や有名人の言葉は大きな影響力をもちます。私たち受け取る側の人間はよくよく注意しなければなりません。
 教科書の内容をきちんと読まずに批判し,拒絶することは,科学的に正しい姿勢であるとは言えません。批判も評価も相手を正しく認識するところから始まります。私たちはまず,教科書の内容に向き合い,正しく理解できる人間を育てなければなりません。検証・批判はそこから始まります。

手伝おうか

 一昨日,無事に引っ越しが終わりました。子どもたちは実にきびきびとよく働いたと思います。小学校の荷物を最後まで運んでくれた中学生。快く力を貸す態度に,頼もしさを感じました。
 その中で輝いた言葉が,「手伝おうか」です。この言葉が沢山飛び交っていました。通り過ぎる友だち同士が挨拶のように声をかけていました。相手を思いやると同時に,自分の出来ることに進んで取り組もうとするいい言葉なのですが,相手の言葉を引き出す疑問型なのが味噌です。本校の子どもたちにとってとても大切なことです。
 「手伝おうか」と声をかけられたら,必ず何らかの返答をすることになります。私たちはそのとき,返答の最初に「ありがとう」を添えています。意識することなく,内面から自然に引き出される「ありがとう」と,相手を思いやる「手伝おうか」。素敵な会話があちこちで聞こえました。
 黙って友だちの荷物の一部を引き取り,一緒に運ぶ姿も多く見かけました。ここには物言わぬ「手伝おうか」と「ありがとう」が弾んでいました。
 少し涼しい風が廊下を渡った午後。
 心温かくなる引っ越しのひとときでした。

花壇

「一億一心」
 第二次大戦前に当時の近衛文麿首相が使った言葉です。この石碑は開校前から敷地内にあり,旧陸軍施設の名残と言えるものです。碑の裏側の銘文は削り取ってあります。大戦前から戦後にかけてのこの国の姿,変遷を映す貴重な資料だと思います。
 この言葉は国民を戦争に駆り立てるために使われた経緯もあり,強い負のイメージがあります。しかし,言葉自体に罪があるわけではありません。言葉を遣うのは人間です。
 心をひとつにする,共通の価値観や目的意識をもって物事に取り組む,そのこと自体はとても大切なことです。

 この石碑を取り囲む花壇は,石碑同様かなり長い間放置されていましたが,業務員のみなさんが綺麗に整えてくれました。大きな石や煉瓦も数多く埋まっており,なかなかの重労働でした。
 石碑の変遷や言葉の意味を考えることが出来るよう,沢山の花で回りを飾りたいものです。

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引越

 土砂災害などの影響で,予定より1ヵ月以上遅れてやっとプレハブ校舎が完成しました。工事関係者のみなさんは,土・日・祝日に作業してくださったこともありました。ありがとうございました。
 今日は児童・生徒と教職員で引っ越しです。プレハブ建設にご尽力いただいた関係者の働きや思いを噛みしめながら,出来るだけ現状を維持できるよう,大切に大切に使いたいと思います。

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「まだ駄目だ」

「もう駄目だ。」
「まだ駄目だ。」
 同じように駄目なんですが,ふたつの言葉には大きな違いがあります。
 前者は可能性を断ち切ってしまう言葉です。その先はありません。後者には続きがあります。少なくとも可能性に向かって進もうとする意欲や姿勢を感じます。
 これは,今季限りで引退することを決めたカープの新井貴浩選手を評した言葉です。衆知のとおり,彼はどんなに叱られても,どんなに失敗しても,常に「まだ駄目だ。」という姿勢で野球に取り組んでいます。
「不可能を可能にする。」
 誰しもが憧れるスーパーマンのような人間に,才能や能力によることなく「できるまでやり抜く姿勢」によって,誰しもがなれるかもしれない。生き方でそう示してくれた選手だと思います。きっと,「無理です。」「できません。」という言葉を使うことはほとんどないのでしょう。
 まさしく生きた教材です。子どもたちに学んでほしい,手本にしてほしい姿勢です。

蝉の声

 猛暑のせいか,今夏は蝉の声が耳に残らなかったように感じます。
 周知の通り,彼等は長い時間を地中で過ごします。成虫として自由に飛び回り命を謳歌できる時間は数日しかないと言われ,命のはかなさ,懸命に生きる姿勢などのシンボルとして取り上げられることが多いようです(実際は1ヵ月くらい生きるそうですが)。
 彼等が自由に飛び回る時間は,実は試練なのではないかと考えることがあります。蝉は特別に素早く飛べる生き物でも,硬い甲殻をもっているわけでも,武器をもっているわけでもありません。実際に何度か見たことがありますが,鳥にとっては格好の餌です。彼等にとって,空は敵だらけで非常に危なっかしい空間です。交尾して子孫を残すために,懸命に歌い,飛び回るのが彼等に与えられた「自由」なのです。
 そうした意味で,地中はある程度安全と生命の保障された空間なのではないでしょうか。勿論,土竜などはいるにせよ,鳥類ほどの危険はないでしょう。大きな温度変化も豪雨などの気象変化も受けにくく,むしろ暮らしやすい空間なのかもしれません。彼等は地中で変態を繰り返し,敵だらけの空を生き抜くための力をじっくりと身に付けていくのです。
 子どもたちにとって生き抜くための力を磨く場所は学園であり,学校です。「自分は大勢の人に守られている」という安心感を子どもたち一人ひとりが自覚できるような教育環境を創るために,研鑽を重ねたいと思います。

似島学園創立記念日

 授業再開。久しぶりに全員が似島学園小中学校に揃いました。
 同時に今日は似島学園創立記念日。原爆投下一年後,被爆孤児のために奔走した森芳麿初代園長がこの地に学園を創設して72年が経ちます。日数にして26297日。秒だと22億7206万800秒。その瞬間瞬間に,学園指導員,関係者,本校教職員,そして何より子どもたちと保護者の方々,どれだけの人のどのような思いがこめられ,注がれ,流され,切り取られて来たのでしょう。その蓄積に思いを巡らすことが,これからの進むべき道を少しでも明るくすることにつながると思います。
 記念日というのはそういうことだと考えています。

8月6日

 昭和20年8月6日。
 母は爆心地から1.4km,今の日赤病院あたりで被爆しました。
 校舎の瓦礫から這い出して逃げることができた同級生は,わずか1割ほどだったと聞いています。頭と腕,足に火傷を負い,命からがら比治山に辿り着いたこと,その後収容された広島陸軍被服支廠に叔父が五日市からリヤカーを引いて探しに来てくれたこと,頭にできた大きな血膿を近所の復員兵の方が軍刀で切って出してくださったこと,久しぶりに登校の指示が出て,学校に割り箸を持って集まると,最初の授業は友人のお骨拾いだったことなど,小さな頃から寝物語のように聞かされました。

 聞きながら,私には釈然としない辛い思いしか残りませんでした。
 なぜ母がこんな目に遭わなければならなかったのか。
 しかし,誰が悪かったとか,誰のせいだとか口にすることもなく,語気を荒げたこともなく,母はいつも淡々とその凄まじい出来事を語るだけでした。その代わり,必ず最後に付け加えた言葉があります。
「戦争に勝者も敗者もない。あるのはただ,犠牲者だけなんよ。」
 女学校一年生,市井の一市民として感じた戦争を,ありったけの感情で語った言葉なのだと思います。
 
 長く取り組んだ被爆証言活動が縁で,映画「夕凪の街 桜の国」の端役で出演が決まったとき,「この歳で女優デビューじゃ。」「生きとくもんじゃねぇ。」と喜んで見せてはいましたが,果たしてどんな思いで撮影に臨んだのか,映画のテーマにどのように関わろうとしたのか,試写会直前に他界した母から聞く機会は遂にありませんでした。
 
 犠牲者になった先人の方々を思い,今年もこの日を迎えます。
 似島学園小中学校は静かな一日になります。

 合掌。
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広島市立似島学園小・中学校
住所:広島県広島市南区似島町長谷1487
TEL:082-259-2311