最新更新日:2024/04/26
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子どもに自己実現力を

鰻屋職人の気概

 土用の丑の日が近づいてくると,近頃いつもニホンウナギの絶滅の話題がニュースになります。
 美味しい鰻が食べられなくなるのは辛いところですが,老舗鰻屋「野田岩」主人,金本兼次郎さんにとっては死活問題です。15歳から鰻を焼き始めて70年,奇跡の名人芸と言われ各界から絶賛される腕をもつ職人です。
 天然物の鰻が手に入りにくくなり,江戸時代から続く伝統ある店の味を守るために,天然物の鰻が入荷しないときは店を閉めるようになりました。しかし,天然物の鰻はどんどん入荷困難になり,とうとう養殖の鰻を出すのかどうかで苦悩する事になります。悩んだ末に彼が辿り着いたのは,「鰻がどうのこうのではなく,どのような鰻でもお客さんが満足して喜んで食べるような鰻を焼く工夫をする事が職人の仕事ではないか。」という姿勢でした。
 時代は変わり,店を取り巻く状況も環境も事情も変わる。しかし,変わらないのは,「美味しい鰻を食べたい」という客の思いと,「お客さんの喜ぶ顔が見たい」という職人の思いです。自分が学んできたときの材料が,道具が,環境が手に入らないと言って嘆くことは誰でもできます。鰻職人は鰻を美味しく焼くことで客を喜ばせることができる仕事をするもの。今日以上の鰻を焼く工夫を重ねるのが仕事です。
 教育も全く同じ。子どもは変わり,親は変わる。環境も変わります。しかし,「できるようになりたい」という子どもの思いと,「子どもの達成感に満ちた笑顔が見たい」という私たちの思いは不変の筈です。金本兼次郎さんは85歳にして未だ泥まみれになって前に進もうとしています。私たちにもまだまだできることが転がっています。

気もちのよい挨拶

 先日,静岡県で下校中の4年生が,18歳の男に突然切りつけられて重傷を負うという痛ましい事件が起きました。「誰でもよかった」という動機には大変やるせない思いです。
 このような通り魔や空き巣などの犯罪を防ぐ最も効果的な手立ては,やはり挨拶なのだそうです。日頃から明るく大きな声で互いが挨拶を交わすコミュニティを創ること,自分はこの社会の一員でなのだと自覚できるような環境を調えることが何よりの防犯につながります。犯罪を意識している後ろめたさや過敏な警戒心をもっている人間には,こうした社会参画意識が邪魔だそうです。何より,自分が周囲から意識されている,認識されていることを嫌がるからです。勿論,犯罪防止という受動的観点ではなく,互いを支え合い高め合う集団づくりという観点からも,挨拶を活動の柱に据えることは意義深いと思います。
 本校の子どもたちも朝からすっきりとした声が出せる,互いにとって気もちよい声かけができる人間に育てていきたいと思います。

輪廻転生

 仏教には輪廻転生(りんねてんせい)という概念があります。命のもと(霊魂のようなもの)は不滅で,生き方や業(ごう)によって,過去から未来へと六道(りくどう)を繰り返す,というものです。
 その中には,ミジンコなどの小動物,虫に生まれ変わることこそ業が軽いのだ,という考え方もあるようです。なぜなら生きることに精一杯で余計な苦しみ,悩みなどないから。人間に生まれるのが一番苦しいわけです。そうした悩みや苦しみの中から悟りを得ることができれば,輪廻転生から解脱して極楽浄土に行けるのです。
 これからの行く末が長い子どもたちには,輪廻転生だの極楽浄土だの言ってもぴんと来ないでしょう。今抱えている悩みや苦しみからすぐに解放されたいのですから,入滅のための世界観を語られても心穏やかにはなれないでしょう。
 家庭や学校で得られる彼らにとっての極楽とは何か。
そのひとつが「達成感」です。少し背伸びをしなければ手の届かない目標を立て,取組をして成し遂げる。取組を繰り返すたびに小さな「達成感」が生まれ,喜びを感じることができる。この経験を繰り返して,小さな努力を続けることの意義を心と身体に沁みこませる。それは,子どもたちにとって心の安寧につながる方法のひとつだと考えます。
 私たちがすべきことは,決して金銭や物品を与えることではなく,少し背伸びの必要な目標を日々設定し続けることです。

ひょっとしたら

 明後日はセネガル戦です。
 試合や情報で見る限り,前評判を覆して,セネガルはコロンビアより遙かに強そうですが,人間というのは現金なもので,ひょっとしたら,という淡い期待を抱いています。かなり多くの国民が,少しわくわくした気もちで過ごしているのではないでしょうか。
 考えてみると,ワールドカップにせよ,プロ野球ペナントレースにせよ,宝くじにせよ,「ひょっとしたら」という期待をもって待つ間が一番幸せなのかもしれません。期待を抱くということが,日々の生活の何よりの意欲喚起,モチベーションアップにつながることは間違いありません。自己実現・生涯学習は私たち自身の責任で全うすべきことですが,そのためには何らかの期待を持ち続けることができるような目標設定・環境設定が必要です。
 子どもたちの場合,彼らが自立するまでは,学習にせよ,生活にせよ,期待を持ち続けることができるような環境や仕組み,準備を工夫するのは私たちの仕事です。学校生活においては,系統的戦略を練って,学校経営,学級経営,学習経営に取り組まなければなりません。
 子どもたちの期待に溢れる環境を調えましょう。

啄木鳥の舌

 「啐啄同時」(そったくどうじ)の話をしたので,ついでに啄木鳥(きつつき)の話を少々。
 名前を知らない人はいない鳥です。
 啄木鳥が木を叩くことをドラミングというそうですが,餌をとる以外に縄張りを主張する音でもあるようです。彼らの餌は蟻。食べるのには長い舌を使います。カメレオンなどと同様,舌を伸ばして捕食するのですが,その舌は頭蓋骨の回りに巻き取られるようになっていて,木を突くときの衝撃から脳を守る働きもしています。実によくできた構造です。啄木鳥という種を残すため,環境に適応するために,より適した特徴をもった個体が生き残り,長い年月の間に進化を続けたのでしょう。
 人間は力を合わせる,思いやるという社会性を磨き続けていますが,より豊かに,よりよく生きるためには自分だけのストロングポイントを磨くことも大切です。私たち教職員も勿論ですが,子どもたちにも「あれこれ」でなく,何かひとつストロングポイントと呼べる力をつけていきたいですね。


UFOの日

 6月24日は「UFOの日」なのだそうです。アメリカ人実業家 ケネス・アーノルドが初めて未確認飛行物体を目撃・報告し,「空飛ぶ円盤」と呼んだことに因みます。
 不思議なもので,アメリカ人は必ず一生に一度はUFOに連れ去られたり,その夢を見たりするそうです。私たち日本人は夢や臨死体験で,三途の川の前に立ったり,死んだおじいちゃんに追い返されたり,という話をよく聞きます。欧米人は絶対しない経験でしょう。逆に,私たちはUFOに連れ去られる夢はほとんど見ません。
 これは,文化・習俗や信仰,生活環境の違いによるもので,日頃どういう教育を受け,どういう価値観の下で育っているかが大きく影響しています。当たり前のことですが,観念や感覚といったものは日頃の意識を下敷きにして身についていきます。
 外国の中には,アイスクリームやチョコレート,ポテトチップスなどを食事のひとつとしてとらえているところがあるようですし,清掃活動を子どもにさせるのは,児童労働,虐待だと考えているところもあるようです。善し悪しと言うより,価値観の違いです。
 日本で行われている教育の中で,価値があるとされているものは,生活や文化のどこにどのように根ざしているのか,日頃から意識し,理解しておかなければなりません。その上で,それらの教育的行為の価値をつかみ,どのように生かすのかについて戦略的に考える必要があります。

掌返し

 「掌返し」という言葉が聞かれます。
 サッカー日本代表の西野監督に対して,です。戦前はさんざん酷評したメディアやネットが,決勝トーナメント進出が見えてきた現在いきなり数々の美談を放り込んでくる。「西野さんごめんなさい」現象だそうです。
 大会直前の試合で連敗したとき,「順調に仕上がっている」「問題はない」「着実にステップアップしている」という西野監督のコメントに対し,「危機感がない」「この監督では勝てない」と選手選考も含めて大バッシングが起きました。しかし,予選リーグで強豪相手に予想外の1勝1分けと大善戦すると,今度は「あの連敗には理由があった」という記事が踊っています。さすがに噴飯物ですが,少なからず私もその一味です。
 私の軽薄で甘い認識を恥じるべきなのですが,それもこれも結果が出たからです。成果が上がらなければ,以前にも増して批判の嵐が吹き荒れているでしょう。考えてみれば,世界のフットボールの最前線で戦う国の代表監督です。私たちが抱いている危機感なぞ当然理解し,分析した上で,結果を出すため,成果を上げるための最善の取組をしていたはずで,とんだ釈迦に説法でした。
 現状を分析し,目標を設定して,戦略的・計画的に行動する。勿論,成果を得るために,彼らは常人には想像できないような努力もしているのでしょう。この構造は授業づくり,教育環境づくりに必要な手立てと全く同一です。
 学ぶことの多いワールドカップです。

子どもが伸びるタイミング

「啐啄同時」(そったくどうじ)
 鶏が孵化するとき,雛が内側から殻を突きます(啐)。するとすかさず親鳥が外側から殻を突いて破ります(啄)。この親子同時の共同作業で,雛はこの世に出てくるのです。
 これは禅宗の言葉で,弟子が悟りを開こうとするとき,師匠が適切なタイミングで教えを施し,悟りを導くことを言います。まさに教育活動そのものです。
 「お母さん,見て見て。綺麗な虹だよ。」
 子どもが母親の手を引っ張っているのに,母親はスマホに夢中で気にもせず通り過ぎてしまう。よく見かける光景です。虹の美しさ,自然の神秘,虹の不思議,虹についての昔話など,親子で語り合う機会をみすみす逃してしまう。ちょっとした大人の対応で,子どもは伸びたり伸びなかったりするのでしょう。
 子どもたちが上昇気流に乗りそうなタイミングを見極め,高く高く羽ばたけるように,長い時間滑空して様々な世界を見ることができるように,適切に指導・支援を行うのが私たちの仕事です。
 まずは飛び立とうとしているタイミングをつかむようにしたいものです。

西郷どん

 「胡麻化す」の語源は,江戸時代に売られていた胡麻胴乱という小麦粉と胡麻を混ぜて膨らませた空洞の菓子,つまり「胡麻菓子」に由来すると言われています。中身が空っぽということの例えで,今の意味に使われているそうです。
 中身が空っぽな人間というのはイメージがよくないですが,子どもと対するときは空っぽにしていた方がいいと思うときがあります。子どもが小さく叩けば小さく響き,大きく叩けば大きく響く鐘ように。
 維新前夜,坂本龍馬が初対面の西郷隆盛を評してそのように言ったとか。相手に合わせて響くためには,こちらの懐が深くないといけませんし,いろいろな引き出しも必要です。
 では,どうすれば「西郷どん」のように懐の深い人間になれるのでしょうか。
 彼は,日々の事象を全て我が事として感じ,考える習慣があったようです。周囲を俯瞰し,場の雰囲気や相手の思いを感じる。つまり,常に高感度のアンテナを張り,意識を高くもって生活するということです。意識を高めることで,より多く「考える」経験を重ね,思慮を深めることができたのでしょう。
 「敬天愛人」とはそういうことなのかもしれません。

真の援助

 先日学校の水道管が破裂し,緊急で修繕をしていただきました。短い時間でしたが断水したため,トイレの使用もできず,水やりもできず,大変不便でした。
 アフリカやアジアの貧困に喘ぐ国々では,インフラ整備が喫緊の問題ですが,一番困るのは経済力にものを言わせて,施設を整備する金や施設そのものだけを援助することなのだそうです。
 水不足の地域に井戸を掘る。これは自体は立派な援助なのですが,掘りっぱなしの井戸はほどなく汚れ,枯れて使えなくなります。本当の援助は,井戸を掘ることではなく,井戸を管理・維持する技能や意識を地域の人々とつくっていく,教育することです。つまり,整備されたインフラを管理できる社会づくりが真の援助であるということです。
 学校においては,教材やドリル,プリントを与えただけでは教育とは言えません。それらをどう与え,どのように活用するのか,考え得る限りの配慮と工夫をする。
 当たり前のことですが,そこに私たちの仕事があります。

星の王子さま

 6月29日は「星の王子さま」の日だそうです。言わずと知れた,サン・テグジュペリの名作です。
 ファンタジーですが,大変に示唆に富んだ言葉に溢れています。
 小説の中でも代表的な次の言葉から,何を読み取ることができるでしょう。

 「本当に大切なものは目には見えない。」
 「大人は誰も,はじめは子どもだった。しかし,そのことを忘れずにいる大人は,いくらもいない。」

 子どもたちだけでなく,大人にも是非読んでほしい一冊です。

文月

 「文月」
 由来には諸説ありますが,中国では七夕の時期に書物を広げて虫干しする習慣があったそうです。「文開く月」が転じて「文月」。単に七夕の短冊を指しているとも言われます。
 近年,電子書籍が増え,ネットでダウンロードすると安く買えることもあって,紙媒体の書籍は売れなくなっています。
 自戒を込めて,の話ですが,私たち子どもの教育に携わる者は,広く情報を収集する習慣,多様な考え方に触れて柔軟に思考する習慣を維持しなければなりません。そうでないと先日の「小さく叩けば小さく,大きく叩けば大きく響く」人間ではいられません。
 読書は,多様な仮想世界に私たちを誘い,疑似体験,独り議論をさせてくれる最も身近なツールです。紙媒体が良いのか,電子媒体が良いのかは議論を譲るとして,時折「文開く」習慣のある読書生活を送りたいものです。

サーマル

 先日,似島大運動会が行われました。雨が心配されましたが一滴の雨粒も落ちることなく,寧ろ薄日が差す程度の,グラウンドに涼しい風が渡るという運動会日和でした。
 競技の合間にふと山を眺めていると,鳶が上空から何かを狙って滑空していました。彼らは数度羽ばたくと,あとは長い時間翼を動かすことなくくるれくるりと滑空します。上昇気流を見つけ,長時間空に居続けることができるそうです。この上昇気流のことをグライダー用語では「サーマル」と呼ぶそうです。グライダーもそれを利用して飛翔する乗り物です。「ブルーサーマル」というグライダーにかける大学生のサークル活動を描いた漫画があります。主人公は,上昇気流を鋭敏に感じることのできるパイロットとしての大いなる才能を少しずつ開花させ,人としても成長していきます。
 子どもたちの成長にも上昇気流,つまり飛翔のタイミングがあります。

骨太の方針

 プロ野球の話です。
 交流戦当初,カープの打線は決定打が出ず,大変苦労していました。パリーグの各チームはカープの打撃力を研究し,カープ打線が得意にしている直球(ストレート)ではなく変化球で勝負する作戦を立てているそうです。
 さて,そこでカープがどのように対策をしたか。
答えは「直球を狙え。」
カープの打線は前の石井琢朗コーチのときから,速い直球を力強く打ち返すという方針の下,数多くの素振りを課し,スイングを鍛えているため,他球団と比べても打者のスイングスピードが非常に速いそうです。
これは球団の大方針です。相手の作戦に合わせることなく,打者育成の大方針を変えないということです。小手先の対応では,今まで積み重ねてきた大方針を崩すことになりかねません。変化球に惑わされて直球にも対応できなくなるのでは元も子もありません。寧ろ,走塁や守備,投手力で補うなどの対応で,打撃そのものの大方針は変えない。とても大切なことだと思います。
 基本的な方針を大切にし,揺るがすことなく対応していく。そのような骨太の方針を策定する。教育活動においても大変に参考になる姿勢だと思います。

褒めることの価値 3

 褒めることは創ることができます。
 実は,修学旅行の意義について,子どもたちに出発式でこう話しました。
 「修学旅行に行くのは,公の心,つまり,自分だけでなくいろいろな人がいるのだ,その中で行動するのだということを学ぶためです。ホームや学校では我儘を言っても理解してもらえるところがあるかもしれませんが,ここ以外の社会に出るとそれは期待できません。公を意識するというのは,回りにもたくさんの人がいるのだということを意識し,そして我慢する,自分をコントロールするということです。」
 秋芳洞で挨拶をして褒められたという出来事は,この話と関連して評価し,褒めることもできます。出発式で話したことをよく聞いていた,回りを意識することができていたから挨拶ができたのだと。
 このように,事前に褒めるための種を蒔く,つまり行動のめあてや物事の視点を具体的に示しておくのです。蒔いた種が実れば,つまり予め設定しためあてや視点に沿った言動を行えば,その点についても褒めることができる。褒めるという評価を生産することができるわけです。
 褒めることは難しいです。叱ること,注意することは目に付きますが,褒めることはなかなか見つからない。「褒める」という評価は,座して待つのではなく,創るものでもあります。

褒めることの価値 2

 前回の続きです。
 「挨拶ができてえらかったね。」では挨拶ができたという言動が○です,という事実しか伝わりません。または,その言動を私たちが気に入った,好きだった,という大人の都合がわかるだけです。それが大切な場合もありますが,子どもにとってどのような価値があるのか,どれだけ価値が高いことなのかを示すことが重要です。
 私はこのように評価しました。
「今日,秋芳洞でみなさんが挨拶をしたら,相手の方がとても感心して,いい子たちだね,と言われました。褒めてもらったみなさんには,いい気分のいい思い出がひとつできたことになりますね。それだけでなく,相手の方たちもみなさんに出会えたことで,気もちよく秋芳洞を見学されたでしょう。ということは,みなさんは他の旅行者のいい思い出をつくったことになります。自分の思い出だけでなく,回りの人,出会った人,他人の幸せにもかかわったことになる。たったひとつの挨拶かもしれませんが,大きなかかわりをつくることができましたね。それが素晴らしい。」
 ひとつの事例として提案しておきます。

褒めることの価値

 褒める・叱るは表裏一体です。両者とも評価のひとつであることに違いはありません。評価とは価値づけを行うことでもあります。
 子どもを叱るとき,有無を言わせず頭から厳しい言葉を浴びせると,反抗的な眼差しになったり,何も言わずただ固まったりすることがよくあります。何を叱られたのか,なぜ叱られたのか,理解できず納得していないこと,つまり自分の言動の価値づけができなかったことが原因でしょう。こうなると子どもの耳は大人の言葉なんて受け付けません。
 実は褒めるのも同じです。肯定的な評価だから,「よくがんばったね。」「えらいね。」「すごいね。」と言えば私たち大人は安心してしまいがちですが,褒められた子どもがポカンとしていることはよくあります。褒める場合も,如何にその言動を価値づけるか,言動の価値を高めるかが大切です。
 先日の修学旅行で,子どもたちが秋芳洞で会ったお年寄りや他の団体客に挨拶をしました。「あら,おはようございます。いい子だね。」という言葉が返ってきました。それをそのまま伝えて「挨拶ができてえらかったね。」では,彼らの言動の価値はさほど高まりません。
 では,どう評価すればよいか。続きは次回に。

見ること 観ること

「百聞は一見に如かず」
 視覚から得られる情報は実に正確で莫大なものがあります。私たちは一瞬のうちにそれを整理して処理するシステムを,長い進化の中で脳に築きあげました。
 サングラスをかけることが乗り物酔い防止の効果を生むのは,視覚情報を少なくできるからです。集中力のない子,学習への取組に課題がある子への配慮として,黒板の回り,教室の前方にはできるだけ掲示物を設置しないのも,視覚情報をできるだけなくし単純化するためです。
 一方「目の錯覚」と言って,私たちの眼は時折,と言うより,結構な頻度で勘違いをします。沢山の複雑な情報に混乱されないように,肝心なもの,注目したいもの以外の情報は曖昧にしたり,見えていても認識しないようにしたりしているようです。
 目に見えるものは時として非常に重い。それだけに注意して観る,つぶさに観る,殊更に観る,「観る」が大切なのだと思います。見えるもの,見えることに惑わされないよう,何を観るのか意識して物事をとらえたいと思います。


背中で感じること

 危険な背後からのタックルで日大アメフト部のプレーが問題視されています。人間が背後に不安を覚えるのは,回りを警戒している,緊張感のある状況にありながら,自分の目で見て確認することができないからでしょう。
 一方で,母に背負われる,声援を背に受けて,背中を押されるなど,回りを信頼し心を開いている状況では,背後から支えられるという安心感を覚える場合もあります。
 子どもを叱るとき,正面に立って腕組みをしていれば,子どもにとっては自分に対抗する壁に見えるでしょうし,膝を折って下から見上げるように語りかければ,自分を包む毛布のように思えるかもしれません。
 赤ん坊のように泣いている子どもを大きな声で叱り続けている母親は,子どもと一緒にパニックに陥っているようにすら見えます。
 子どものパニックに対応するのは大変難しいことですが,彼らがその時々にどのような状況にあるのか,何を感じているのか,望んでいるのか,常に意識するアンテナを張り,思いを受け止める準備と姿勢は大切にしたいと思います。

言葉で表す

 遠くから見ていると緑一色の小富士も,近づいてみると萌えるような黄緑色の若葉を湛えた樹木があちこちに見られます。
 黄緑色と簡単に言いましたが,若葉のそれは,柔らかく,輝くような,儚い,若々しい,清々しい,幼い,弱々しい,透き通るような,誠実な,私にはそんな感じを受けます。
 たったひとつの事柄から何を感じるか,どう感じるか,イメージの広がりを言葉にしたり,音にしたり,絵に描いたりすることが表現です。子どもたちにより豊かな言葉による表現力をつけていくために,ひとつのもの・ことをとことん追求する好奇心,多角的に見る観察力,より多くの言葉。この3つの力を育てていきたいと思います。

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広島市立似島学園小・中学校
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