最新更新日:2024/05/17
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五日市南小学校 学校教育目標 「一人一人の可能性を伸ばし,心豊かなたくましい子どもを育てる」

1年生の教室で

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楽しそうに粘土を作っています。
平和学習の絵本が展示されています。

4・6年生平和学習「ウェブ会議システムによる被爆体験伝承講話」

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平和記念資料館啓発課に申し込みをし、今日のウェブ会議システムによる被爆体験伝承講話が実現しました。
(財)広島平和文化センター 被爆体験証言者 國重 昌弘(くにしげ まさひろ)さんの「私の8月6日」という講話です。伝送者は小谷節子さんです。

國重さんは、昭和6年4月3日生まれ。
県立広島二中2年の14歳の時、爆心地から約2キロの東練兵場で被爆されました。
前日の8月5日は、旧広島県庁付近で建物疎開作業に従事し、「あの日」は交替の1年生322人が現在の平和記念公園で犠牲となったそうです。

戦時下の中学生は、太平洋戦争の末期、成年男子の多くが戦線や軍需工場に徴用され、 その穴埋めの形で、中学3年生以上は兵器工場などに通年動員され、1、2年生は交替で建物疎開などの勤労奉仕に従事していました。

建物疎開は、B29爆撃機による焼夷弾攻撃で全国の主要都市が次々と焼かれていくため、軍都広島でも中心部の民家16,000戸を東西4キロ、幅100メートルにわたって取り壊し、この空き地と7つの川で延焼を防ごうという狙いでした。

この作業に従事中に被爆死した中学・女学校の1、2年生は、約8000人にのぼります。 当時の建物疎開の跡が現在の平和大通りなのです。
8月6日、県立広島二中の2年生は、 8月5日に旧広島県庁(現在の加古町)周辺の建物疎開作業に従事し、6日は広島駅裏の東練兵場にいました。 この日は登校日だったのですが、急遽、練兵場の芋畠の草取りになったのです。

午前8時、先生の「集合!」の声に2年生約300人が整列を終えた時、級友のひとりが「空襲警報は解除になったのに、爆音がするのう」と言うので、上空を見ると、東から飛んで来たB29が急に北に向きを変えた、と思ったら光るものが2つ、3つ…。
私の記憶は、そこまでです。

ピカドン
気がついた時は、熱線と爆風でなぎ倒され、芋畠の中に折り重なっていました。
白い煙の中でうごめく人影と級友の顔がやっと見え始めたと思ったら、どの顔も灰色で、血の気がない。
土埃で汚れたのかと、友人の頬をさわると、顔の皮がズルッと剥むけました。 思わず手が震えました。
隣の友達が「お前の方がもっとひどいで」と言うので、そっと頬に触れたら、皮がズルリと垂れ下がりました。
これでは草取りどころではない。
急遽「作業中止。解散」ということになりましたが、顔全体と左腕に火傷していた私は、しばらく芋畠に座り込んだまま動く気力もありません。

上空を見ると、積乱雲のような雲が、赤い炎を巻き込んで、物凄い勢いで天空へと昇っていく。
市の中心部は一面火の海で、半身火傷の兵隊、下半身ボロを下げたような女学生の集団、火傷と包帯の警官に引率された囚人らしき群れ…。
いずれも幽霊の様に、両手を前に差し伸べたような姿で逃げてきます。

逃避行
昼過ぎになったころでしょうか。
吉島陸軍飛行場方面に逃げてゆく人々。
治療や救援の見込みもないので、市の西部から通学している仲間7人と、燃えている中心部を迂回して、戸坂、緑井、己斐のコースで家を目指しました。 道端には瀕死の重傷者が「水をください」とうめいていましたが、私たちも歩くのがやっとの状態で、助けるすべもありません。
そのうち私ら自身、ノドの渇きに耐えられなくなり、途中の救護所で「水を下さい」と訴えましたが、「火傷の人が水を飲んだら死ぬ」と、油のようなものを塗ってくれただけで、飲ませてくれません。
そんな時、農家の裏にある井戸を見つけ、「もう我慢できん。死んでもええ」と、釣瓶で汲んだ井戸水を、私が最初に飲みました。
あの時の冷たい水の味は生涯忘れることはできません。
もっとも、10分も歩かぬうちに火傷部分が水入りのゴム風船のように膨らみ、救護所で聞いた警告に怯えることになりましたが。
夕方近く、やっと己斐駅までたどりつき、軍の救援トラックに乗せてもらって廿日市の自宅まで帰りました。

仇かたきを討うつ
両親の顔を見た時は涙が止まりませんでしたが、その夜から新たな地獄が始まりました。 母親に頭を押さえられ、父親がピンセットで火傷の皮膚を剥はぎ、毎日4回、カサブタを剥いで白い油薬あぶらぐすりを塗りました。 それはギザギザの缶の蓋で引っ掻かかれるほどの痛みでした。
そんな時、「痛いよ、この仇はとってやる」と呻いていたそうです。

被爆証言
1日違いで生きながらえた私たち2年生は、「身代わり」となって死んだ1年生に対するうしろめたさのようなものを引きずって生きてきました。
そして被爆65年、テレビで戦後生まれの語かたり部べの存在を知り、 生き残った私たちこそ証言すべきではないかと気づかされました。
それが石に刻まれた1年生の無念の思いを代弁することになるし、地球上から核兵器を廃絶することが、私の「仇討ち」にも通じると思うからです。


6年生算数科「分数のわり算」

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 3/4dLのペンキで2/5m2を塗れるとき,1dLで塗れる面積を求める式はわり算で求めます。それが前時の学習でした。本時は,図や式を用いて,計算の仕方を考え説明することができることが本時のねらいです。
 前単元「分数のかけ算」のところで,既習した分数÷整数のやり方を想起しながら除法の意味をとらえ直していきました。
 大人は分数で割る計算は,わる数の逆数をかければいいと分かっていますが,なぜそうなるのかを説明するのは大変むずかしいことです。算数は積み上げの学習なので、計算のきまりなどの習得がとても大切です。

6年生算数科「逆数の意味とその求め方を理解する」

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 前時までの復習を大型テレビで提示し、分数のかけ算の仕方や整数を分数にする方法を確認していきました。
 本時は、逆数の意味とその求め方を理解し,逆数を求めることができることをねらいとしています。
 問題を解く見通しをもつために、話し合い、自力解決の時間を設け、ペア解決し、集団解決をするステップを踏んでいきました。
 真分数や仮分数の逆数は,分子と分母を入れ替えた分数になることをまとめていきました。
 最後に「逆数トランプ」というゲーム的要素を取り入れた活動が入りました。子どもから「たのしそう〜」という声が上がりました。最後まで、しっかり集中して学んでいました。
 次の時間には、逆数トランプに班ごとで取り組んだそうです。トランプの神経衰弱のように楽しく取り組んだことでしょう。担任は8班それぞれに「逆数トランプ」を準備していました。もちろん担任による手作り教材です。

6年道徳「泣き虫」〜いじめをゆるさない心

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 クラスで起きたいじめに対する,トオルくん,藤井くん,勇気くん,「私」の行動を描いた物語です。
 トオルくん・・いじめる側
 藤井くん・・いじめられる側
 「私」・・・傍観者
 勇気くん・・・いじめを止めに入る主人公
 それぞれの立場の視点に立って考えていく授業でした。
いじめを許さないために必要なのはどんな気持ちかを考えさせ,不正を許さない断固たる姿勢をもち,いじめに向き合い,正義の実現に努めようとする実践意欲と態度を育てたいと思いました。
 6年生の道徳は専科授業ですが、今回は担任も校長も指導者と同じ思いで、一緒に授業を参観しました。
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