最新更新日:2024/05/16
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子どもに自己実現力を

褒めることの価値 3

 褒めることは創ることができます。
 実は,修学旅行の意義について,子どもたちに出発式でこう話しました。
 「修学旅行に行くのは,公の心,つまり,自分だけでなくいろいろな人がいるのだ,その中で行動するのだということを学ぶためです。ホームや学校では我儘を言っても理解してもらえるところがあるかもしれませんが,ここ以外の社会に出るとそれは期待できません。公を意識するというのは,回りにもたくさんの人がいるのだということを意識し,そして我慢する,自分をコントロールするということです。」
 秋芳洞で挨拶をして褒められたという出来事は,この話と関連して評価し,褒めることもできます。出発式で話したことをよく聞いていた,回りを意識することができていたから挨拶ができたのだと。
 このように,事前に褒めるための種を蒔く,つまり行動のめあてや物事の視点を具体的に示しておくのです。蒔いた種が実れば,つまり予め設定しためあてや視点に沿った言動を行えば,その点についても褒めることができる。褒めるという評価を生産することができるわけです。
 褒めることは難しいです。叱ること,注意することは目に付きますが,褒めることはなかなか見つからない。「褒める」という評価は,座して待つのではなく,創るものでもあります。

褒めることの価値 2

 前回の続きです。
 「挨拶ができてえらかったね。」では挨拶ができたという言動が○です,という事実しか伝わりません。または,その言動を私たちが気に入った,好きだった,という大人の都合がわかるだけです。それが大切な場合もありますが,子どもにとってどのような価値があるのか,どれだけ価値が高いことなのかを示すことが重要です。
 私はこのように評価しました。
「今日,秋芳洞でみなさんが挨拶をしたら,相手の方がとても感心して,いい子たちだね,と言われました。褒めてもらったみなさんには,いい気分のいい思い出がひとつできたことになりますね。それだけでなく,相手の方たちもみなさんに出会えたことで,気もちよく秋芳洞を見学されたでしょう。ということは,みなさんは他の旅行者のいい思い出をつくったことになります。自分の思い出だけでなく,回りの人,出会った人,他人の幸せにもかかわったことになる。たったひとつの挨拶かもしれませんが,大きなかかわりをつくることができましたね。それが素晴らしい。」
 ひとつの事例として提案しておきます。

褒めることの価値

 褒める・叱るは表裏一体です。両者とも評価のひとつであることに違いはありません。評価とは価値づけを行うことでもあります。
 子どもを叱るとき,有無を言わせず頭から厳しい言葉を浴びせると,反抗的な眼差しになったり,何も言わずただ固まったりすることがよくあります。何を叱られたのか,なぜ叱られたのか,理解できず納得していないこと,つまり自分の言動の価値づけができなかったことが原因でしょう。こうなると子どもの耳は大人の言葉なんて受け付けません。
 実は褒めるのも同じです。肯定的な評価だから,「よくがんばったね。」「えらいね。」「すごいね。」と言えば私たち大人は安心してしまいがちですが,褒められた子どもがポカンとしていることはよくあります。褒める場合も,如何にその言動を価値づけるか,言動の価値を高めるかが大切です。
 先日の修学旅行で,子どもたちが秋芳洞で会ったお年寄りや他の団体客に挨拶をしました。「あら,おはようございます。いい子だね。」という言葉が返ってきました。それをそのまま伝えて「挨拶ができてえらかったね。」では,彼らの言動の価値はさほど高まりません。
 では,どう評価すればよいか。続きは次回に。

見ること 観ること

「百聞は一見に如かず」
 視覚から得られる情報は実に正確で莫大なものがあります。私たちは一瞬のうちにそれを整理して処理するシステムを,長い進化の中で脳に築きあげました。
 サングラスをかけることが乗り物酔い防止の効果を生むのは,視覚情報を少なくできるからです。集中力のない子,学習への取組に課題がある子への配慮として,黒板の回り,教室の前方にはできるだけ掲示物を設置しないのも,視覚情報をできるだけなくし単純化するためです。
 一方「目の錯覚」と言って,私たちの眼は時折,と言うより,結構な頻度で勘違いをします。沢山の複雑な情報に混乱されないように,肝心なもの,注目したいもの以外の情報は曖昧にしたり,見えていても認識しないようにしたりしているようです。
 目に見えるものは時として非常に重い。それだけに注意して観る,つぶさに観る,殊更に観る,「観る」が大切なのだと思います。見えるもの,見えることに惑わされないよう,何を観るのか意識して物事をとらえたいと思います。


背中で感じること

 危険な背後からのタックルで日大アメフト部のプレーが問題視されています。人間が背後に不安を覚えるのは,回りを警戒している,緊張感のある状況にありながら,自分の目で見て確認することができないからでしょう。
 一方で,母に背負われる,声援を背に受けて,背中を押されるなど,回りを信頼し心を開いている状況では,背後から支えられるという安心感を覚える場合もあります。
 子どもを叱るとき,正面に立って腕組みをしていれば,子どもにとっては自分に対抗する壁に見えるでしょうし,膝を折って下から見上げるように語りかければ,自分を包む毛布のように思えるかもしれません。
 赤ん坊のように泣いている子どもを大きな声で叱り続けている母親は,子どもと一緒にパニックに陥っているようにすら見えます。
 子どものパニックに対応するのは大変難しいことですが,彼らがその時々にどのような状況にあるのか,何を感じているのか,望んでいるのか,常に意識するアンテナを張り,思いを受け止める準備と姿勢は大切にしたいと思います。

言葉で表す

 遠くから見ていると緑一色の小富士も,近づいてみると萌えるような黄緑色の若葉を湛えた樹木があちこちに見られます。
 黄緑色と簡単に言いましたが,若葉のそれは,柔らかく,輝くような,儚い,若々しい,清々しい,幼い,弱々しい,透き通るような,誠実な,私にはそんな感じを受けます。
 たったひとつの事柄から何を感じるか,どう感じるか,イメージの広がりを言葉にしたり,音にしたり,絵に描いたりすることが表現です。子どもたちにより豊かな言葉による表現力をつけていくために,ひとつのもの・ことをとことん追求する好奇心,多角的に見る観察力,より多くの言葉。この3つの力を育てていきたいと思います。

調べるという学習活動

 沖縄・奄美地方では例年より少し早めの梅雨入りだそうです。いよいよあのじとじととした時期が続くのかと思うと気が滅入ります。
 ところで,「梅雨」はなぜそう呼ばれるのかご存じですか。
 一番有名なのが,梅の実が熟す頃だからという説。湿り気が多くカビが生えるので「黴雨」と呼んでいたのが,同じ音の「梅雨」になったという説。毎日雨が降るので,「毎」と似た漢字である「梅」を当てた, という説もあります。
 では同じ意味の「五月雨」の語源はどうでしょう。
 「さ」は田植えの意味の古語,「みだれ」は「水」が「垂」れると書いて「水垂れ」だそうです。言葉を分解したり,同音の漢字に置き換えてみたりすると意味が想像できます。
 手がかりを探そうという好奇心(関心・意欲・態度),視点を変えるというものの見方(技能),調べるという活動を通して育てていきたい力です。
 

運動会

 運動会の起源はイギリスやドイツで行われていた職工作業員の体育的行事が起源だとか,明治時代に日本海軍の指導をしていたイギリス人が企画したとか,諸説ありますが,現在のような運動会・体育祭は日本独特のものです。
 競技である以上は勝ち負けにこだわってしまうところですが,私は運動会にせよ,遠足や修学旅行といった行事にせよ,わくわくドキドキする感覚を子どもが味わうことが大切だと思います。
 わくわくドキドキする感覚というのは,取組や応援に左右されるものでしょう。運動会だけ速く走って結果を出すだけでは,わくわくドキドキ感は生まれません。自分のできる限りの取組の積み重ねの先にこそある感覚だと言えます。そして,それを支えるのが心からの温かい応援です。
 子どもたちの経験や学習を意義深いもの,楽しいものにするために,どんな行事・活動にせよ,なぜそれに取り組むのかという理由づけと,取組の過程を大切にしていきたいと思います。

履き物を揃える

 本校は,ランチルームや希望館までの距離があり,トイレ以外にも靴の脱ぎ履きをしなければならない機会が多くあります。その際,靴やスリッパを揃えるように指導すると思いますが,そもそもなぜ履き物をを揃えないといけないのでしょう。
 ひとつの答えとして,禅宗の高僧 宮崎奕保禅師の言葉を借りてみます。

 体が真っ直ぐであれば心が真っ直ぐになる。履き物がゆがんでいたら,それを放っておけないのが真っ直ぐな心。ゆがんだものを見ても平気なのは,心がゆがんでいる証拠。全て心の表れ。歩くときも立つときも座るときも,背筋をしっかり伸ばして真っ直ぐにする。それが禅だ。スリッパを揃えるのは当たり前のこと。人生で当たり前のこと以外に修行することはない。自分が真っ直ぐであるためには,周りの環境も真っ直ぐにしなければならない。ちゃんと型にはまったものが,いつも日常の姿にあってこそ自由になれる。
(石川昌孝 著「坐禅をすれば善き人となる−永平寺宮崎奕保禅師百八歳の生涯」より)

 よりよく生きる,より美しく生きる,人生の価値を高める。履き物を揃えることも含めて,日常の所作,行為は全てそこにつながっているということです。
 襟を正し,姿勢を伸ばすこと。
 改めて意識したいと思いました。

可愛いということ

 イギリス王室のシャーロット王女が,生後間もない弟のルイ王子のおでこにキスをしている写真が話題になっています。何とも可愛らしくて微笑ましい。並べて紹介するのは不謹慎かもしれませんが,上野のパンダ,シャンシャンも愛嬌をふりまいて大勢の観客を集めています。
 赤ん坊というものには,どのような生き物であれ,言葉にできない愛らしさ,愛しさを感じます。一説には,幼い生き物ほど弱く,庇護を必要とするので,誰が見てもどう見ても可愛らしくつくられているのだとか。
 それでも,人間の子どもたちは可愛気のないこと,生意気なことを言って,大人を困らせることもあります。私たちは,もっともっと可愛いものを見つける眼,視点を鍛えていかなければなりません。
 日頃から感度の高いアンテナを張り,彼らの可愛いところ,よいところを見抜き,大いに評価しましょう。


当たり前のこと

 早起きが苦手な私ですが,毎朝かなり早く家を出ています。船の時刻に間に合わないと困るからです。もし間に合わなければ,容赦なく船は出航します。この物事の仕組み,理屈に納得している,あるいは理解できていることが,毎朝定時に起きる原動力になっています。
 「当たり前」とはよく使う言葉ですが,自分の言動を制御(コントロール)すべき必然性(理由・理屈・理解)があることが,「当たり前」を「当たり前」にするのだと思います。
 子どもたちに「当たり前です。」と指導する前に,私たちはその内容に子どもたちの言動を制御する必然性をもたせているかどうか,熟考しなければなりません。

感覚と本質

 先日,午前中出張の帰りにバンカー便に間に合わず,フェリー小富士に乗船して帰校しました。フェリーは遅々として進まないように思え,学園港まで50分間を漫然と過ごしました。
 しかし,実際の運行速度には大差がないようです。フェリーは大きくて揺れが少なく,比較的ゆっくり走っているように感じます。バンカー便は小さくて揺れが大きく,スピードが出ているように感じます。見た目の感覚に左右されず,物事の本質・事実を客観的に見極めることが大切だと思いました。
 同時に,環境を整え,雰囲気をつくれば,速くなくても速く,大きくなくても大きく,簡単でなくても簡単に感じることができるということです。
 子どもたちの回りの環境づくりを工夫していきたいと思います。

恐れを感じる力

 バックモニターは便利な道具です。車を後退させるとき,後方が視認できるくらい安心なことはありません。最近の車は,物が近づくとセンサーが反応して警告音まで鳴らしてくれます。
 しかし,それに頼ると「予測」を怠るようなると思います。
 私たちの周囲にある事象は,目に見えることが全てではありません。危機管理は「恐れがある」ことを予測するところから始まります。
 何かが飛び出すのではないか,低い位置に縁石はないか,穴や段差はないか,などの「恐れ」を「予測する力」を磨き,センサーとして有効に稼働させたいと思います。

「できない」ことのよさ

 4月早々,「全国学力・学習状況調査」が行われました。
 学校では様々なテストに取り組んでいます。満点を取るに越したことはありませんが,満点が取れなかった,あるいはテストで失敗した子どももある意味幸せです。
 自分の課題が明確に,具体的な形で見つかるからです。課題の克服という点では,何に取り組めばよいかがはっきりしていれば,半分以上克服できたようなものです。
 大切なことは,自分の失敗に向かい合うこと。「できない」ことと向き合うことです。

浮き桟橋

 学園前の桟橋は浮き桟橋です。
 浮き桟橋の良さは,潮汐の大きさによって海面からの高さが変わらないことで,瀬戸内のような海に適しています。また,個人的には船の揺れと桟橋の揺れが同期するので,乗り降りが比較的平易である点も利点だと思っています。
 子どもたちの言動・心情はいつも大きく小さく波立っていますが,私たちはその揺れに合わせ,子どもたちが穏やかに行動できるようにしていきたいものです。


安芸の小富士

 似島は「安芸の小富士」と呼ばれます。
 日本にはこの「○○富士」と呼ばれるところがたくさんあります。私たち一人ひとりが富士山をシンボリックに感じ,その美しさや雄大さに理想や美しさ,憧れや畏敬の念をもっているからでしょう。
 子どもたちの中に富士山のような揺らがない理想,誰がどう考えても正しい,美しいと感じるものを育てていきたいと思います。

通勤に思うこと

 毎朝,宇品の市営桟橋から小さな船で通勤することになりました。
 
 海には道がありません。どこをどう走っても自由ですが,目的地に着くためには航路というものがあります。私たちは子どもたちの進む大海原に,目に見えない航路をつくり,導く必要があります。
 もっともそれは,私たちが船長になることではありません。船長は子どもたち。私たちの仕事は海図なり,ソナーなり,コンパスになって,船長の操船を適切にサポートすることです。
 子どもたちの大いなる航海のために,力を尽くしたいと思います。

新年度の船出にあたって

 平成30年度がスタートしました。
 本年度4月1日をもって本校校長として赴任しました,岩本和貴(いわもとかずたか)と申します。何もかも一からの勉強です。何とぞよろしくお願いします。
 
 本校は,学校での出来事を公開することの難しさがありますが,代わりに学校長の所感を日々発信しようと思っています。

                         校長  岩本 和貴
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広島市立似島学園小・中学校
住所:広島県広島市南区似島町長谷1487
TEL:082-259-2311