最新更新日:2024/04/24
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「平和のつどい」

 8月6日は原爆記念日です。矢野小学校では「平和のつどい」を行いました。
 今日は、矢野東在住の宮尾英夫様の手記を子どもたちに紹介し、昭和20年8月6日の矢野の町の様子について話しました。手記を紹介させていただきます。(児童向けに加筆しています。)

「原爆の日の朝」
 広島に世界初の原子爆弾が投下された1945年8月6日当時、私は矢野小学校4年生でした。あの日は夏休み中でしたが登校日でした。
 当時の矢野小学校の正門は、今の福祉センターの門の場所にあたります。その門の右手に今も立っている二宮金次郎の銅像に一礼して登校しました。現在の福祉センターや矢野幼稚園の場所に建っていた矢野小学校の校舎の中庭を通り抜けて、宮下川にかかる橋を渡りグラウンドに行きました。
 朝のラジオ体操をするため整列し、校長先生の話が始まるので敬礼のあいさつをしました。そのとき、後ろ上空に爆音が響き、ゆっくりと呉方面から飛行機が飛んで来るのが見えました。
 そのときは太平洋上のケニアン島を飛び立ち、原子爆弾を積んだアメリカ軍のB29爆撃機だとはもちろん知りませんでした。また矢野の町には危険を知らせる空襲警報がなかったため、私たちはむしろ日本軍の飛行機だと思い込み、みんなその飛行機に向かって敬礼をする始末でした。朝礼台の体育指導の先生から「飛行機に敬礼するな。」と叱られたのを覚えています。
 その数分後です。ピカッと強い光線が走りました。そして無数のドラム缶が破裂するようなズドン、ズドンという轟音が響き、そのうち灰色の砂埃を巻き上げた猛烈な熱風が運動場を覆いました。
 運動場にいた全員が「熱い、熱い」と叫びながらそれぞれの教室に走って避難しました。まっすぐ家へ帰る者もいました。そこで灰色の噴煙の収まるのをじっと待ちました。
 私は、最初矢野駅の辺りに爆弾が落ちたのだと思っていました。友達の声で広島方面を見ると、上空に傘のような形の大きな黒いキノコ雲がもくもくと湧き上がるのが見え、広島に大きな爆弾が落ちたのだと分かり、急に恐ろしくなりました。
 昼頃になり、自宅に帰るよう先生から言われ下校しました。その途中、全身やけどを負った人たちが広島方面からたくさん矢野小学校の方に歩いて来るのを見ました。
 やけどを負った人たちは、教室で治療されましたが、当時は効果的な薬が少なく、油のようなものを体に塗るしかありませんでした。しかし、その油の臭いはひどいもので、その臭いは77年経った今でも原爆の惨状を思い起こさせます。
 原爆が投下された日の夜は、近くの山に掘られた防空壕に身を潜め、寂しい一夜を過ごしました。
 矢野町内での原子爆弾による被災者の収容人員や、犠牲者の数は今も分かっていません。

 矢野の町は中心部からは少し離れていますが、宮尾様の手記から矢野も原爆と深い関わりがあったことが分かりました。児童にも伝わったと思います。
 その後、六年生の代表児童が「平和宣言」を発表し、後半は「しんちゃんの三輪車」を視聴しました。
 あの日から77年が経ちましたが、現在も世界では戦争が起きています。平和について考える大切な1日になったと思います。

                        校長 桐野 寿久


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