最新更新日:2019/12/09
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子どもにとって今日が楽しく、明日が待ち遠しい学校を目指す、己斐小学校のホームページへようこそ

プール

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水泳指導の準備完了。
プールが子ども達を待っています。
来週からスタートです。
準備をお願いします。


片時も読書

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すごい、すごい!
給食配膳ができるのを待つ間、読書をしている子が多いのにおどろきました。
どんな本を読んでいるの?
給食に招待をしてもらって、待つ間、楽しいブックトークの時間にもなりました。(by校長)

訪問給食

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 今日は4年のクラスに訪問給食に行きました。
かわいい招待状が届き、今日の日を楽しみにしていました。
 給食を班の中に入り、おしゃべりしながらいただきました。
そして、今日も先生達のお話がありました。お題は、好きな給食と大好きな食べ物です。 食を語ることはその人を語ることと聞いたことがありますが、まさしく的を得ており、楽しいお話でした。

田村優くんの発表

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原稿は完全に覚え、会場の方を見渡しながら、表現力抜群で、心にしみる素晴らしい発表でした。堂々とした発表に感動しました。

こどもピースサミット2015「平和の歌声・意見発表会」

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 6月13日(土)、広島市教育委員会主催によるピースサミット意見発表会が南区民文化センターにおいて開催されました。平和記念式典の子ども代表を決める選考会でもあります。
 広島市小学6年生から応募された平和の意見作文10,600作品のうち20作品が選ばれ、その児童による意見発表会です。
本校からも「平和を紡ぐ」という題で、田村優くんが意見発表を行いました。
田村優くんは、惜しくも子ども代表に選考される大賞は逃しましたが、次の「ピースサミット優秀賞」という素晴らしい賞を受賞しました。堂々とした本当に素晴らしい発表だったと思います。
 今回、意見発表した20名は平和祈念式典で子ども代表が世界に向けて発信する言葉を考える学習会に参加します。また、広島の子どもの代表として、平和記念式典に参加します。

6月15日の給食

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牛乳 麦ごはん しそ昆布佃煮 冷やししゃぶしゃぶ 卵スープ

冷やししゃぶしゃぶには,薄切りの豚肉を使っています。豚肉はビタミ
ンB1がたくさん含まれていて,夏バテ防止にぴったりの食べ物です。
冷やししゃぶしゃぶは,豚肉とたまねぎ,にんじんや夏においしい
きゅうりなどの野菜をタレであえて,さっぱり味に仕上げています。

卵スープには,湯むきしたトマトを刻んで入れました。さわやかな風味
のスープです。
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6月12日の給食

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   牛乳 麦ごはん 肉じゃが おかかあえ 小魚アーモンド

肉じゃがは,広島県呉市や京都府舞鶴市で考え出された料理といわれています。肉は今日のように牛肉を使うことが多く,ほかに豚肉や鶏肉を使うこともあります。

今日は2年2組の訪問給食でした。調理員さんが「肉じゃがに使ったじゃがいもは何個だったでしょう?」とクイズを出しました。正解は215個。正解した子は大喜びです。

お元気で。また来年もお願いします!

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 1時間という短い時間でしたが、被爆証言をしてくださった方のお話は子どもたちの心に強く残ったことでしょう。
 皆さん、己斐小学校の卒業生であり、70年前原爆が投下された当時、小学生〜中学生の方々です。また来年もお話をお願いします。
 お元気でご活躍ください。

疎開の記録

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柚崎さんは世羅に疎開していた時の状況が分かる資料を集めておられます。
貴重な資料です。

被爆体験継承学習のあとで

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 各学級でのお話を終え、校長室にお集まりいただきました。子どもたちが真剣な眼差しでしっかり話を聞いてくれたこと。質問がたくさんあったこと。子どもたちの様子を喜んでおられました。
 毎年、この学習会のために集まってくださる皆さんです。中には、毎年、東京から帰って来られる方もいらっしゃいます。また、お互いの1年ぶりの再会を喜ばれています。まるで同窓会のようです。
 今回は図書ボランティアの方も入られてお話をしました。己斐小学校の原爆投下時から現在に残る物を記録に残すことを考えておられます。
 ヒマラヤ杉、桜、イチョウの木。二宮金次郎の像があったこと。防空壕がどの位置にあったかなど。教えていただきました。

被爆体験継承学習

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台井高明さん。被爆当時15歳。
昭和18年己斐小学校を卒業した。普段は防空壕を作る仕事などをしていた。
8月6日、お姉さんが里帰りをして帰るのを駅へ送り、帰った後に己斐上町4丁目で被爆した。
突然目の前に強い光。気がついたら田んぼの側溝に倒れていた。
仕事に行ったお父さんを探しに行った際、黒い雨に打たれた。
逃げてきた人たちに遭遇するも、助けを求められたが何もできなかった。
己斐小学校でお父さんを探すが見つからず、4日間。
両親が亡くなった後も1人で生活しなくてはいけなくなったが頑張った。



被爆体験継承学習

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中野英子さん。被爆当時12歳。
高学年は小学校で学校の手伝いをしていた。馬の飼葉を取ったり松の根の油を取るため掘っていた。燃料になる。
8月6日、その日、私は学校へ行きたくないと言った。母が父に怒ってもらうと言った。父が行きたくないならいかんでいいといった。二日後、疎開する予定だった。
ラジオから警報解除と聞こえてきた。ラジオから変な音。ジージージージー。
直後、爆風で吹っ飛ばされた。
ガラスが割れ、ふすま、たたみがぐしゃぐしゃになった。
水をくれと言う人がやってくる。家の中に人がいっぱい入ってきた。何が起きたかわからなかった。むしろでくるんで、大八車で運んでいた。どんどん死んだ人が運ばれてくる。
亡くなった人達は学校で燃やされた。その後、講堂の裏に土ごと持っていかれた。
8月25日父が死んだ。何も食べられなかった。氷を食べていた。口の中が熱かった。いい子せえよと言い残してなくなった。皆さん、親孝行をしてください。
絶対戦争はしないように。英語は世界共通。頑張って勉強してほしい。平和を維持するようにしてほしい。

被爆体験継承学習

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平井譲さん。被爆当時11歳。
中深川へ向かう途中、電車に乗っていたら、山越しに光って爆発した。雲が広がって、アメリカ兵が降りてきたのが見えた。やってやろうと思っていた。
写真は原爆投下直後の御幸橋の周辺を写した写真である。
背中を向けた少年が写っているが、この少年の母親が24年後にこの写真を見て、息子に間違いないと証言をした。24年後である。24年たっても息子の面影は母親の記憶からなくなることはなかったそうである。その後この少年の消息は不明である。肉親と会えずに亡くなった方はたくさんいた。本当に痛ましいことである。

被爆体験継承学習

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梶山一光さん。被爆当時6歳。
8月6日勉強の用意をしていたとき被爆した。爆風で体が吹き飛ばされた。
家はぐちゃぐちゃになり、山のかげで火傷はなかった。
洋館が5センチメートルずれていたほど。
夕方に黒い雨が降った。
小学校にやけどをした人が集まっていた。死んだ人を穴を掘り、埋めて焼いた。

被爆体験継承学習

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坂本史郎さん。被爆当時6歳
8月6日、小学校の登校日だった。朝礼で運動場に集まった時、ドカンという音と吹き飛ばされたという記録。先生の「防空壕へ」という声で、這って入った。昼頃までの記憶があまりない。

被爆体験継承学習

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粟村勲さん。被爆当時6歳。
己斐国民学校の1年生で、集団疎開をしていた。今の己斐駅の近くに青年会館があり、そこに親と離れて学習したり生活したりしていた。とても寂しくて泣いていた子もいた。
8月6日の原爆が投下された時には、ピカッとあたりが急に真っ白になり、その瞬間、ものすごい音でドーンと、建物が壊れた。
幸い怪我もなく急いで家に帰ると、家が全壊していて泣いた。
親の姿もなかったので、大変不安だったが、母親も無事であったので安心した。
父親の叔母もガンで亡くなっている。

被爆体験継承学習

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山田玲子さん。被爆当時5年生。
1年生の時、アメリカと戦争になった。
2年生の時、日本の勝ち戦が宣伝され、パレードがあり、ボールが配られた。
3年生ぐらいから、日本が負けはじめ、物資が少なくなり日本が困って行った。
4年生、防空壕などが作られよく、避難をしていた。

8月6日、父は広瀬小学校に、みんなは疎開の準備をしていた。母は班で地元の作業。
私は運動場に8時に出て、疎開の話を聞いていた。暑さのため、少し木かげで休憩をした。
その時、B29が上空でUターンをした。ピカッと光り、急いで防空壕に走った。
風に押されて転んで柳の下敷きになった。みんなで防空壕に走った。
雨が降った。父が怪我をして、兵隊に連れられて帰ってきた。
己斐の道は歩けないほど、人が避難していた。座っている人や倒れている人などいっぱいだった。
道で立っていた人に名前を呼ばれたが、怖くて無視をした。動けなくて焦げていた人だった。
次の日には、道にいた人たちがきれいになくなっていた。校庭皇帝で燃やされていた。みんな死んでいたのか。あの時、声をかけなかったこよを後悔をした。
火傷の薬がなくて、キュウリをはって体を冷やした。
戦争が終わり、民主主義と発表され、夜明けが来たような思いがした。
私は、毎年ニューヨークの学校に行って被爆体験の講演をしている。
これから、しっかり学校で勉強してほしい。

被爆体験継承学習

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柚崎さんが集団疎開したときの写真を見せてくださいました。

被爆体験継承学習

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柚崎 博さん。被爆当時12歳。
己斐国民学校6年生であった。世羅郡のお寺に学童集団疎開をしていた。
親元を離れて、子どもだけでお寺で生活をしていた。土地の人たちが親切にしてくれた。食糧難で、イナゴやカタツムリも食べたことも覚えているが、当時の事は楽しい思い出ばかりである。
40年たって、当時、一緒に疎開していた者同士、同窓会をしてお寺に訪ねていったこともある。
己斐に戻ってこられたのは9月12日。人の体にハエがたかったり、うじ虫がわいている様子も見た。己斐小学校では2000人を荼毘にしており、数年後、小学生もみんなでお骨ひろいをする作業も経験している。
早くから、高い志を持って、自分のやりたいことをやって欲しい。

被爆体験継承学習

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 毎年、己斐小学校では、この時期に4年生以上の全クラスに、1人ずつに被爆体験継承者に来ていただいてお話をしていただいています。当時、己斐小に在籍されておられた方々です。6月10日(水)2校時に、被爆体験継承学習をもちました。
 被爆体験の継承のために、本ホームページで証言の抜粋をお伝えします。

山本儀子さん。被爆当時6歳。
原爆が投下時は、山口県在住。その後、己斐小へ入学。原爆が投下されたとき大きな音がして防空壕にいた。父の実家が己斐上町で山口から帰ってきた。
広島にいた叔母は電車に乗っていた時被爆。己斐上まで自力で帰った。大やけどをしていた。長いこと苦しんでいた。
己斐小学校は医師が来て、治療する所として使われた。
「水分が入ると体の中でパチンと音がして死んでしまう」と父はよく言っていた。原爆のことをみんなに言うと結婚できなくなるとも言われた。
 妹は1歳になったばかりだったが、今年の4月に肺がんで亡くなった。今思うと、広島にすぐに帰ったことで影響もあったのかと思う。
 一瞬のうちに平和を奪う戦争で、この己斐小学校では2000人もの人を荼毘にふした歴史がある。己斐小で学ぶ皆さんに、人の心の痛みのわかる優しい気持ちを持ち続けてほしいと願っている。「どうぞ」の気持ちを忘れないでほしい。自分だけでなく、周りにも幸せをあげる人になってほしい。
 過去は変えられないけど、未来は変えられる。平和をふくらませてほしい。
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