最新更新日:2024/04/24
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全体朝会  「アオギリのうた」

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2000年、広島市はミレニアム記念事業として「広島の歌」を公募しました。2001年、公募国内外915点のうち、当時千田小学校3年生の 森光七彩(もりみつななせ)さんが作詞・作曲した「アオギリのうた」がグランプリに選ばれました。

「校庭の木(アオギリ)のお母さん・・・」と歌詞にありますが、実際にこのお母さんアオギリは、平和公園の資料館の裏にあります。
元々は東白島町の広島逓信局(今の郵便と電話の両方の仕事をするところ)の中庭に4本ありました。昭和20年8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。4本のうち1本が焼失しましたが、残り3本は奇跡的に助かりました。その後、中国郵政局が建て替えられることになった時に、被爆アオギリは現在の平和公園内に移植されました。ただ、1本は枯れてしまい、現在2本が広島市により大事にされています。

残る2本から取れる種で育てた苗木「被爆アオギリ二世」といいます。広島市の平和活動の一環として日本国内のみならず世界中に配布され、植えられています。南観音小にも被爆アオギリの子どもがいます。ブランコのとなり、緑の柵の中にあります。校内に柵で囲まれている木はほかにありません。緑の柵は、この被爆アオギリ二世が、苗の時に大事に守られていた証拠です。

写真の女性は、沼田鈴子さん。残念ながら5年前に亡くなりました。被爆アオギリと言えば、この方です。私は沼田さんが生きておられる時に、直接お話を聞く機会がありました。聞き取りやすい大きな声で、ハキハキとお話してくださる方でした。

沼田鈴子さんは当時21才、アオギリが助かった逓信局で働いていました。ちょうど仕事の前の掃除をしていたとき、沼田さんの目の前に「きれいな色」が広がりました。原爆の閃光です。どれくらいの時間が経ったのか、気が付くと沼田さんの左足首は瓦礫にはさまれ、骨が完全に切断されていました。助け出された後も、ほとんど治療は受けられなかったため、沼田さんの左足は膝まで腐ってしまいました。そのため、10日の朝、ほとんど麻酔をせずに腿から下を切断することになりました。
沼田さんは緊急の収容所から逓信病院に移り、数度の手術のあと1年半後、やっと退院することができました。けれど沼田さんの人生は完全に破壊されていました。結婚を約束した人は戦死していました。たくさんの親戚や友人も亡くなりました。そして、広島には75年間草木が生えず、人間ももはや生きられない、と言われていたのです。

絶望的です。生きる元気なんか湧いてきません。
沼田さんは死にたいと考えるようになりました。そんなとき、沼田さんは逓信局の運動場でアオギリの木に出会いました。その木は、原爆の熱線に焼かれて片側の幹がごっそり焼け落ちていました。沼田さんは自分と重ね合わせて、なんとかわいそうなと思いました。ところがそのとき、沼田さんは焼かれていない反対側の幹から細かい小枝が出ていることに気づきました。アオギリから新しい生命が芽吹いていたのです。沼田さんにはアオギリが語りかけてくるように感じました。「鈴子、片足がなくなっただけで、何をクヨクヨしているんだ。私だって半分は死んでいるんだよ。でも、小さいながらも芽を出し、葉を広げると、やっぱり気持ちいいよ。」と。

沼田さんは日本のみならず様々な国の学生を相手に、自分の被爆の体験を語り続けておられました。「証言は、私の平和の一粒の種まきです。多くの方々が手をとりあって一粒ずつの種まきの輪をひろげましょう。美しい地球、素晴らしい未来のために、身近なところから、心の種をふやしてまいりましょう。」とお話を締めくくられました。

沼田さんがおっしゃる「身近なところ」。自分たちにあてはめると、毎日生活を共にする 家族、隣の席の友達、クラスの仲間・・・まずは、この身近なところから「いじめ、いやがらせ、いじわる」などなく、お互いに穏やかに生活していくことができるような心づかいができるといいですね。

私たちにできる素晴らしい未来のための種まきです。


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広島市立南観音小学校
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